たまには、翔花抜きの自分オンリー感想を試みます。
よって、文体も以前の敬語調、一人称も「ぼく」「自分」がいいかな、と。
で、簡単にこれらの作品の経緯を語ると、まず作者のアーネスト・クラインが「80年代のオタク文化への傾倒と、日本のサブカルチャー推し」を濃密に描いた近未来ヴァーチャル活劇として話題になったのが邦題『ゲームウォーズ』、原題『レディプレイヤーワン』ということになる。
アメリカで出版されたのが2011年で、その後、邦訳されたのが2014年。そして、スピルバーグ監督によって原題タイトルで映像化されたのが今年2018年の春の話。
作者のクラインは、1972年生まれの46歳で、NOVAとは完全に同世代だったりしますな。そりゃ、80年代に青春時代を送って愛着があるってもの。
そして、待望の2作めが『アルマダ』で、アメリカ出版は2015年。今年の春に邦訳版が出て、のんびり読み進めて先週、ようやく読了したわけですな。
そういうタイミングでの感想です。
両作品の比較(ジャンル編)
まず、どちらの作品もオタク文化への言及が濃厚で、マニア知識的にニヤリとさせられる細部描写が多い。当然、アメリカ人視点なので、『スターウォーズ』などの海外SF、アメコミヒーロー、そしてD&Dを中心とするファンタジーゲームや映画など。『ロード・オブ・ザ・リング』のガンダルフのセリフ引用など、主人公の身の回りは、NOVAを喜ばせてくれる要素に溢れている。
ただし、『ゲームウォーズ』の方はそれらのマニア知識を満遍なく包括的に扱っており、日本文化好きもいっぱいあったのに対し、
『アルマダ』の方は物語テーマが、「宇宙人による侵略SFやファーストコンタクト物」に絞られており、ゲームの方も総合的なヴァーチャル世界を反映したものではなく、「宇宙人の侵略メカを撃退するシューティングゲームや、地上でのロボメカバトル」が主体。
これで、後者のロボメカバトルがメインならNOVAのツボを突いたと言えるのだけど、主人公のザックはもっぱら宇宙戦闘機のゲームを中心にプレイしているため、ロボによる地上戦はサブキャラの背景程度の描写。ロボ戦がないわけではないが*1、そっちがメインではないため、シューティングゲームのファンならハマれたかもしれないのに、と、やや距離を置いた感覚。
これがバルキリーのような可変戦闘機なら良かったのだけど、スターウォーズのXウィング的な方向性なので、映像作品ならともかく、NOVAのツボのど真ん中ではない、当たらずと言えども遠からず、でも少しもどかしい、という感想になる。
つまり、前作ゲームウォーズが好きなものを全て詰め込んだ総合デパート、何でもありの宝箱だった作風なのに対し、
今作アルマダは方向性を絞り過ぎたために、「いやいや、そこじゃないんだよ、俺のツボは。ギリギリのところでかすめて、触れてる程度。惜しすぎる」って感じ。
まあ、それでも十分及第点で面白い作品だったんだけど、やはりブレイクした前作と比べるとね。
ゲームウォーズの方向性
前作は、夢があった。
というか、未来社会で現実がお先真っ暗な状況で、幻想のバーチャル世界に逃避せざるを得ない世界観。
ゲームの中にしか夢がないという中で、そのゲームを構築した80年代好きなゲームデザイナーに憧れを抱く若者が、80年代マニアになってデザイナーの人生を追体験する的な物語。
よって、過酷な現実と、夢のゲーム世界の両面が描かれる中で、「夢のゲーム世界を現実の搾取空間に貶めようとする大企業の陰謀と戦う」のがメインストーリー。
その中で、ゲームを通じて知り合った親友や恋人、日本人ゲーマーと共闘して、ゲーム世界に仕掛けられた謎を解きつつ、それを仕掛けたデザイナーの真意を探求した末に、最後にはゲーム世界を愛する多くのゲーマー仲間を率いて、企業の尖兵とクライマックスの大戦争を行うという流れ。
何というか、いろいろ盛り沢山なんですね。
そして、最終的な結論は、ゲームの世界を守るために戦ったけど、現実も決して悪くはない。勝利の暁には、地位も名誉も恋人もゲットだぜ、と正にゲームオタク夢のサクセスストーリーになったわけで。
なお、これが映画になると、スピルバーグ監督のバランス感覚からか、「夢のヴァーチャル世界を映像化しつつ、現実性も表現豊かに混ぜ込んで、アクションシーンに取り込む」という見せ方で、最終的な結論としては「ゲームの世界も楽しいけれど、現実ももっと大切にしようよ。ゲームにハマり込むのも程々に」って大衆向きのメッセージになる。
これはこれで悪くない、と自分は思った。
とりあえずのテーマとしては、主人公憧れのゲームデザイナーのジェームズ・ハリデーが72年生まれという設定で、作者のアルターエゴになるんだろうけど、社交が苦手な完全オタクという位置付けで、「自分の人生の趣味や感性を理解して欲しいという願望と、自分の過ち(友人や恋人を失ったこと)を繰り返して欲しくないという若者向けメッセージ」をゲーム内の謎に込めたわけで、ゲーム好きの、ゲーム好きによる、ゲーム好きのための小説と言っていい。
映画になると、もっと視野を広げて、ゲーム好きと一般層の橋渡しになるような作品を狙ったところだろうね。
一般人相手には、「へえ、最近(近未来)のゲームって、ここまで凄いことになっているのか。ゲームってのもバカにできないんだな」ということを伝え、
ゲーマー相手には、「ゲームだけが人生じゃない。夢と現実の折り合いを付けろ」ということを伝えている。
アルマダの方向性
こっちには夢がない。後味の良い形での夢が。
というか、主人公はゲームの達人でありながら、現実に目を向けることを強いられている。そして、直面する現実が戦争であり、愛する者の死であり、苦い青春の思い出から踏み出して、大人として歩み続ける幕切れである。
もちろん、物語としては「夢だと思っていた戦闘機のパイロットに選ばれ、幼い頃に亡くなったと思っていた父親と再会し、恋人となる女性と出会い、陰謀に立ち向かい、宇宙人との和解に成功し、栄光と幸せを勝ち取る」んだけど、主人公はそういう自分の人生に懐疑的というか、夢の世界は思っていたほど良いものではないことを意識して、現実を一歩一歩踏み出す大人として生きることを決意する形。
ハッピーエンドではあるけど、失うものが前作よりも多かったためか(リアルの戦争を経たのだから当たり前)、内心的に喜べずにいる終わり方。
前作が『スターウォーズのエピソード4』の終わり方で、今作が『エピソード6』の終わり方と言えばいいのかな。いや、むしろ『エピソード8』かも知れない。要は、偉大な英雄だった父親の死を経て、勝利に至ったようなもの。
そう、今度の80年代オタクを象徴するキャラは、主人公の父親である。主人公は現代人で、幼い頃に亡くなった父親のことを悪く言われると、カッとなってキレちゃうぐらいの父親好き。
だから、父親の遺品であるオタクコレクションとか、SF研究ノートをしっかり勉強して、優秀なオタクゲーマーに育ったわけですな。
で、この父親の研究ノートが凄くて、そこに作者のネタ知識がいっぱい仕込まれている。父親はもちろん、D&Dゲーマーでもあるし、もう作者クラインの分身というか理想像というか、まあ、NOVA的にも感情移入しまくり。ちょうどいいタイミングで、NOVA自身も父親役を演じていたわけで、ええと、これで主人公が息子じゃなくて娘だったりしたら、NOVAはどれだけクラインさんとシンクロしてるんだよ、と思っていたろう。
とにかく、上巻ではこの主人公の現実的な、父親譲りのオタクライフが丹念に描かれて、何となく「夢が現実になったらいいのにな」とか思いつつ、ゲームショップの店員バイトと高校生活の両方を過ごし、イジメっ子にキレてケンカし、やり過ぎて停学処分になりかけたり、まあ、リアルなトラブルを経ながらも、「自分はもっと現実を見ないといけない。父親譲りのSF妄想癖に流されちゃいけない。シングルマザーの母さんを心配させないような男にならないと」と思いながら、「でも、今夜のオンラインゲームは大事な戦いだから、まずはそれを乗り越えないと」なんて趣味に溺れちゃう普通のゲーマーオタクなわけで、これはこれで結構、感情移入できます。
だけど、ある日、ゲーム世界でおなじみの敵戦闘機をリアル世界で目撃しちゃうわけだ。「え、とうとう父さんの妄想病が自分にも発症した? 何てこった」と慌てつつ、実は「ゲームの方が、現実の宇宙人侵略に対抗するために構築されたパイロット養成シミュレーターだった」ということが判明し、現実と妄想の壁が取り払われることに。
そこから一気に、侵略軍の先遣部隊との戦いになり、パイロットとして集められた主人公たちの初陣となって、上巻がほぼ終了。
で、下巻に入る頃に、実は生きていた父親との再会を通じて、宇宙人の真意とか、父親の妄想まみれの仮説を聞かされて、半信半疑のまま「父親との再会への喜びと、自分たち家族を捨てて対宇宙人対策に邁進していた父親への怒りなど、複雑な感情」を持て余したりするものの、目前に迫った戦いのために、気持ちの整理もできないまま戦闘に駆り出され、知り合ったばかりの戦友(でも、ゲームのスコアランキングではお馴染みの名前)がどんどん戦死する過酷なバトルに直面したり。
操縦する機体は遠隔操縦式で、撃墜されても代わりの機体はいくらでもあるので、自爆戦術もやり直しも可能。だけど、宇宙人のメカが、主人公たちの操縦ルームまで侵攻してきたら現実的な死の危険性に見舞われるわけで。
まあ、そういう場面でお馴染みの「ここは俺が引き受ける。お前たちは今のうちに脱出するんだ。後は任せたぞ」と死に際の自己犠牲主張を展開するサブキャラもいたり、脱出途中で無防備に追い詰められた主人公をギリギリ地上メカで助けながら「約束したでしょ。あなたは私が守るって。敵は私が引きつけるから、あなたは今のうちに安全なところへ。後でまた会いましょ」というヒロインいたり、この辺のシーンは割と定番だけど燃えたり萌えたり。
というか、「空想と現実の境界線で思い悩み、父親との関係で鬱屈しがちで、決してアクティブな性格ではない主人公」よりも、このヒロイン視点の物語の方がよほど面白そうと感じられたり。
前作に比べても、ヒロインの出番が少なすぎるのが今作の欠点の一つ。邦訳版の下巻表紙では大きく描かれているのにね。
そんな中で、過酷な犠牲者続出のバトルの中で、主人公の父親が提案したのは、宇宙人との徹底抗戦ではなくて、和解の方向性を探ること。
まあ、それに対しては「今さら和解などできるか。そんな主張を認めようものなら士気が下がって、勝てる戦いも勝てなくなる」というタカ派軍人いたり、いろいろ人間関係がこじれていくわけですが、父親の自己犠牲と、最後の希望を息子に託すことで、ついに終戦に至る流れ。
この結果、父親は偉大な英雄として銅像が作られたり、主人公も名誉とかいろいろ勝ち得るんだけど、それすらも主人公にとっては嬉しくない。夢と現実の境界線の間で、鬱屈している状況で、それでも父親の遺した平和を自分が守るためには、現実の宇宙人との交渉の窓口として頑張らないと、っていう幕切れ。
なお、高校時代の因縁の相手だったイジメっ子は、宇宙人襲撃のために片手と両脚を失う重傷を負ったものの、義手義足で何とか生活復帰。英雄となった主人公と和解する結末。
しかし、イジメっ子がイジメの対象としていて、主人公が庇う形となったイジメられっ子は宇宙人の最初の襲撃で犠牲になっており、運の悪い、弱い人間はどこまで行っても、ろくな目に合わないんだな、という作者の人生観が表れていたり。割とクラインさんは殺すときはスパッと殺す割り切り型の作家なので。
スピルバーグ監督の方が、この辺はマイルドで、原作で死んだキャラにも救いと活躍のシーンを与えてくれるわけで、このアルマダも映像化すればどうなるかなあ、と考えてみたり。
少なくとも、ヒロインの出番はもっと増えることは間違いないだろうと思いつつ、当面は『レディプレイヤーワン』の映像ソフト化を待ち望んでいたり。大体、秋ぐらいでしょうな。(完)
*1:敵の小型メカが合体して巨大ロボになり「ボルトロンかよ」と主人公が驚くシーンあり。念のため、ボルトロンとは日本のロボアニメの『ゴライオン』と『ダイラガー』のごちゃ混ぜアニメ。五体のライオンが巨大ロボに合体したり、15機のマシンが巨大ロボに合体したりします。80年代ロボアニメファンの基礎知識。まあ、世代が違えばカルト知識に分類されると思うけど。